琵琶湖大津の旅
昨日、近畿は雨模様であった。けれど今朝は一転、空は晴れて少し暑いくらいの秋の日射しを感じます。
ふと二人で顔を見合わせて、琵琶湖にでも行こうかということになりました。
二人の旅には よくボートが連れ添う。
旅先でボートに講じて利益が出れば、またその諭吉様で
旅を続けるのです。
さて、幸いその日の琵琶湖競艇は秋の天空に恵まれているのに
人もまばら、一般戦レースだから観客少ない。
なにしろ広さがあるから、人が少しぐらい多くても目立たないのです。
諭吉さんが懐に飛んできて来てくれて絶好調でした。
折角の諭吉さんだから、今日は大津の宿に泊まろうかということになって、瀬田川流域石山寺近くの某旅館に泊まった。
紅葉もまだ色づいていない。シーズンオフだから容易に
宿は見つかる。
食事を済ませてタクシーで宿に向かった。
黄昏の瀬田川沿いを少し歩いた。宿は石山寺の近くにある
小さな旅館である。木造の古めかしき風情のある宿である。
古くから石山寺の門前町として栄えた旅館街をもつ石山温泉は
1953年に発見された。石山寺、岩間寺、立木観音などの
観音めぐりや湯治に遠方から大勢の観光客か訪れているが、
今のシーズンオフは人影もまばらでちょうどいい。
翌朝、歩いて数分の石山寺を散策する。
石山寺は西国33ケ所観音霊場の第十三番札所として
また近江百景「石山の秋月」として有名な寺院であります。
全国でも類を見ない巨大な硅灰岩(天然記念物)の上に
建てられている。紫式部が源氏物語の構想を練ったと伝わり、
紫式部展も開催されていた。
紅葉の季節には参拝客で満ち溢れ、また札所として参詣
の絶えないときは付近の宿泊所は満員になり、宿探しも
容易ではないだろう。
琵琶湖周辺にはゆっくり散策すれば、散策好きの方には
また意外な発見があるかも知れない。建部大社もしかり。
瀬田の唐橋、俵藤田のむかで退治、石山温泉、岩間寺、
これらはみな大津近辺であるから琵琶湖全体一周
すればとても紙面では語りつくせない。
さて、次は比叡山に向かう、京阪電鉄で京阪石山から
坂本までわずか30分あまり、車窓から眺めれば
少し遠くに琵琶湖湖畔が見える。
けれどこの電鉄周辺は 以前は見渡す限り田畑の
みどり眩い一帯であった。
けれど昨今は通勤圏内なのかいたるところの田畑は
住宅に生まれ変わっている。
狭い国土で食糧を失い、人間の住処だけがどんどんと増えている。
おかしな現象である。
坂本駅から坂本ケーブルで比叡山に登る。
天気快晴、坂本駅から日吉大社の緩やか登り道を歩くこと
数十分、この間に大将軍神社、生源寺、津院、滋賀院門跡がある。
慈眼堂は新緑紅葉の最大の見所である。
坂本といえば本能寺事件の明智光秀の居城があった
ところであるが、いまはその城の面影はなく石碑のみ
が立っている。
比叡山には坂本ケーブルと比叡ケーブルの二つのケーブル
がある。坂本ケーブルでわずか数十分で比叡に至る。
約420年前、 織田信長はこの山裾から比叡山を
焼き討ちにして
僧兵、老若男女を焼き殺した。このケーブル線上に
それらの骨を拾い集めた石窟があるという。
それはこの比叡の中腹にあり、 それらの遺骸の魂
はいまも琵琶湖を展望しているに違いない。
旅はわたしにとって本来歴史の深訪であり、過去の
生きていた人の
哀しみ喜びを感ずるひと時なのであります。
単に今癒される自分がいるのでなく、いくつもの時代
の変遷を経て 今日に至るまでの軌跡 そのものが
旅なのでありますが、歴史を知らずして旅することは
まさに旅の醍醐味は半分以下になるような
そんな心境であります。
比叡の頂から眺める 今日の琵琶湖は
遠くに琵琶湖大橋が展望できるものの、
なにかかすんで見えます。
ケーブル坂本駅から山道を少し走りたくなり、
妻にはゆっくり歩いてくるように言いつつ、
根本中堂までの曲がりくねった細い勾配の山道を走りました。
息切れはするももの、なにか清清しい気分であります。
正直言いますと、いやはや年の波か、足にも多少の痛みが
なんともはや情けないことであります。
まだ比叡山には紅葉は見当たりません。
もうすぐ紅葉の季節になれば この道もたくさんの人
が訪れるでしょう。
比叡山には東塔、西塔があり比叡の山頂にいくには
叡山ロープウェイで行く方法もあります。
比叡山の歴史も古くここで語れば
際限なき世界 延暦寺をはじめとした根本中堂、釈迦堂、瑠璃堂、椿堂、
親鸞聖人修行の地など数多くの寺院もあります。
琵琶湖を一望できる標高848メートルの比叡山は
これからがまさに紅葉の見所の季節なのかも知れません。
参考 近江百景
堅田の浮御堂(うきみどう)あたりでは、飛び降りてくる雁の群れがよく似合うし、遠く聳(そび)える比良山の暮雪が琵琶湖に映じている景色などはまことにみごとである。
矢橋の渡し場に向かう帆掛け船には夕暮れの靄がたちこめ、風が青々とした粟津の松並木を吹いているのも眺められる。
夜寒くなって唐崎の松林の間に降る雨にも風情があり、月が皓皓(こうこう)と輝く石山寺あたりの秋も美しい。
三井寺の晩鐘や勢多(瀬田)の唐橋の夕暮れ時の景色も深い趣があり、ここを通り過ぎる旅人はたちまち故郷をしみじみ思う情に誘われてしまう。
この詩の構造は平起こり七言律詩の形であって、下平声十一尤(ゆう)韻の収、洲、秋、愁の字が使われている。第一句は踏み落としになっており、第三句、第五句、第七句は平仄が整っていない。第七句は孤平になっている。
大江敬香 1857-1916
明治、大正時代の漢詩人。徳島藩士《のち浜松県典事(てんじ)》の大江孝文の長男として江戸八丁堀で生まれる。名は孝之(たかゆき)、字は子琴(しきん)、号は敬香、楓山(ふうざん)、愛琴(あいきん)などがある。明治5年慶応義塾に入り、卒業後東京大学文学部に入学するが、病により中途退学し、冀北(きほく)学舎に入りのち教師になる。漢詩は21歳(明治11年)より始め、七言律詩を得意とし、婦人の琴雨もまた詩をよくした。「花香月影」「風雅報」などを刊行する。大正5年10月病のため没す、年60。
http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_B06_2.html